トレブリンカ強制収容所
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度37分35秒 東経22度2分49秒 / 北緯52.62639度 東経22.04694度 / 52.62639; 22.04694

トレブリンカ強制収容所(トレブリンカきょうせいしゅうようじょ、Konzentrationslager Treblinka)、もしくはトレブリンカ絶滅収容所(トレブリンカぜつめつしゅうようじょ、Vernichtungslager Treblinka)は、ワルシャワから北東約90kmに存在したナチス・ドイツ強制収容所である。ポーランドユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つである(他にベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所)。

1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、70万人 - 90万人のユダヤ人[# 1]と2000人のロマ[3]が殺害されたと推定されている。
歴史イスラエルヤド・ヴァシェムに展示されているトレブリンカの看板

1942年5月リヒャルト・トマラ親衛隊大尉の指揮により建設工事が開始された。建設はリーグニッツのシェーンブルン社(Schonbronn)とワルシャワのシュミット=ミュンスターマン社(schmidt munstermann)が請け負い、作業員としてワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちが動員された。建設案については、トマラは自身が建設指揮をとったソビボル強制収容所に多くの部分を倣った[4][5][6]

1942年7月よりエルヴィン・ラムベルト親衛隊伍長(de:Erwin Lambert)の指揮下、ガス室が稼働開始しユダヤ人絶滅作戦が始まる[7]。トレブリンカには主にワルシャワ地方やラドム地方、ビアウィストク地方、ルブリン地方、マケドニアトラキア地方、ドイツ本国テレージエンシュタットからユダヤ人が移送されてきた[2][8]。ここに到着後、数時間のうちに殺害されている[9]
囚人の反乱と閉鎖反乱により黒煙を上げるトレブリンカ収容所

1943年8月2日、ユダヤ人特別労務班の反乱がおこり、収容所内の建物を放火しほとんどを焼き払い、収容所の1000人の囚人のうち600人ほどが混乱に乗じ脱走成功した。しかしその後親衛隊の捜索でほとんどは再度捕縛された。戦後まで生き残ったのは100人ほどであったという[10][11]

この大規模脱走事件を機に収容所は解体されることになった。8月18日と19日のビアウィストク・ゲットーからの被移送者8,000人のガス殺を最後にトレブリンカの施設は爆破され、犠牲者の遺体は掘り起こされ焼却された。しかしこの折に周囲の町々まで悪臭が漂ったため、遺体処分後土地は改めて整地されて上にウクライナ系農民たちの家を建てさせ、通常の農地のように偽装し隠蔽が図られた。これら隠蔽工作もユダヤ人労働者を使用して行われ、彼らは全ての隠蔽作業が完了した1943年11月17日に全員銃殺された[10]
構造解体・隠蔽工作後のトレブリンカ跡地の航空写真(1944年撮影)に、解体された施設の位置をマーキングしたもの。左下には看守の居住区が、画像下の矢印で印された場所には連れてこられたユダヤ人の集荷場が、中央右の×印の場所にガス室が存在した。

トレブリンカ強制収容所は先に建設された二つの強制収容所(ベウジェツ強制収容所とソビボル強制収容所)と類似した設計になっていた。収容所敷地は矩形であり、面積13.5ha。高さ3mの鉄条網機関銃サーチライトを備えた監視塔で囲まれていた。絶滅収容所のため一般の強制収容所と比べると手狭であった。付近に人家は少なく、ビルケナウ強制収容所のような鉄道引込み線が設けられた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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